ファッション化するオタク文化 ~家族の再々集結を目指して~

2022年度も、海堂家は日本国の定めた新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドライン及び早稲田大学教旨に従い、模範国民を目指し、自主的な感染予防の為の取り組みを進めてまいります。

笑顔ウルトラZ

知識に限らず、のび太は自分が優位に立てばそれをすぐにひけらかすというのは事実です。しかし、彼の名誉のために少しだけ付け加えておこうと思います。

25巻収録の「な、なんと!!のび太が百点をとった!!」より。65点で大騒ぎする彼ですが、100点をとった際は驚くほど冷静であり、自分のことしか考えない自慢が他人に与える不愉快さにも気を配ることができました。






これも知識に限った話ではないのですが、プラス1巻収録の「きらいなテストにガ〜ンバ!」では、自分の心には頑張りたい自分とどうしても怠けてしまう自分の二人がいると涙ながらに告白。心つき出ししゅ木によって現れた頑張りのび太と怠けのび太の戦いの結果、一瞬の隙を突いて怠けのび太が勝つことになりますが、負けたら消えるはずの頑張りのび太は消えず、机に向かい勉強を始めます。のび太は確かに怠け者ですが、努力の尊さを知らないわけではありません。少しでも自分を自分が理想とする自分に更新したいという気持ちは持っています。














34巻収録の「のび太もたまには考える」より。
能力カセットを使い、テストや運動で一流の能力を発揮するのび太ですが、今回ドラえもんは道具を返せと言わず、ただ成り行きを見守るだけという態度をとります。様々なカセットを使った後、「考える人」というカセットを使ったのび太は今までの自分を振り返り、直視したくない現実と向かい合うことになるのですが、個人的には、ここでのび太が考えていることというのは「考える人」のカセットの力によって生まれたものではなく、もともとのび太の心にあやふやな形で置いてあったものがカセットの効果によってはっきりとした言葉になって引き出されたのではないかと捉えています。何度も努力する決心をしても、何度もその決心が挫けてしまう。それでもなお、自分に絶望せずに、自分を捨てずに、もう一度決心をしてみる。「基本的にはのび太アンチヒーローとして描かれているが、堕落しきった人間として描かれているわけではない」という旨のことを藤子・F・不二雄先生は語ってらっしゃいましたが、そういったのび太の性質がよく表れている場面の一つだと思います。



「自分の弱さ」というものを知り尽くしながら、それでもやっぱり一歩でも二歩でも前に行きたい。もう少し高いところに行きたい。そういう気持ちを持ち続けているのび太っていうのが、ぼくは本当に大好きなんです。
藤子・F・不二雄先生はのび太についてこう語ってらっしゃいます。
誰だって現在の自分より少しでも良い自分になれるものならなりたいと思うでしょう。上を見上げて自分の理想を語ることは、のび太を含めた多くの者がしていることです。しかし、自分の欠点を誤魔化さずに直視すること、下手なプライドに邪魔されず、ダメだと思った時は素直に自分をダメな奴と認められることというのは、理想を語るよりもほんの少しだけ難しいことなのではないかと思います。
勿論、自分の弱さを認められることができても、それが日々怠けていることに対する免罪符にはなりませんが、彼の長所の一つに数えても良いだろうと思うのです。



みんな、今の自分よりも少しはましになりたい、もっと向上したいと思う。でも、毎日、同じ反省を繰り返しながら、足踏みをしている。結局のところ、それが人間というものなんじゃないかと思うんです。
これも藤子・F・不二雄先生の言葉です。
理想とする自分に簡単になれる人間もいれば、そうでない人間もいるでしょう。できることならしたくないような努力が必要となる場面もあるでしょう。
まず、努力をしようと思う人間と、努力するくらいなら面倒なのでやめる人間に分かれる。1日は努力できても、3日目には努力できなくなる人間がでてくる。一週間経てば、一ヶ月経てば、努力を継続できる人間の数はどんどん減っていく。最初に100人いたとしたら、一年後には2、3人しか残っていないのではないでしょうか。
一度決心した努力を継続することはそれぐらい難しいことであると思いますし、だからこそ努力を継続できる人間は周りから「凄い」「立派だ」と褒められもするのです。しかし、こういった人間は多くはないでしょうし、もし、この世に一度決心した努力を継続できる人間の方が多かったとしたら、努力は価値のあるものとは考えられないでしょう。
多くの人間が理想に近づこうと努力し、途中で挫折する。そして時間が経てば、また決心して、挫折する。前回と同じところで挫折するかもしれないし、前回よりも進歩するかもしれないし、前回よりも早く挫折するかもしれない。なんだかんだで気付いてみれば、ちょっと進んでは戻ったりの繰り返しで、同じような場所で足踏みをしている。そういった多くの人間に当てはまる状況を体現したキャラクターこそがのび太ではないかと思うのです。
同じような反省を繰り返しては失敗する、これは普通に考えればあまり良いことではないのでしょう。ですが、良かろうが悪かろうが、人間っていうのはそういうものなんじゃないのかと考えられた藤子・F・不二雄先生の気持ちは僭越ながら少しは理解できるつもりですし、頑張ろうと決心してもついつい楽な方向に流れてしまう、そんな人間らしさが溢れているからこそ、僕はのび太を愛してもいるのです。人間なんて良いとこばかりじゃない、むしろ悪いとこの方が目立つくらいの方が人間臭さがでてくると考えられたから、のび太というキャラクターが現在の形になったのではないかと思います。他人を見れば、良いところよりも悪いところの方が目についてしまうものですから、世間が下すのび太の評価というものも仕方ないのかなとも苦笑しながら思ってしまうのですが、人間臭さを強く持っているが故に彼は人一倍の怠け者であり、その人間臭さ故に人並みか、それよりも少し下の向上心もまた同時に持っているのだという目でのび太を見て頂けれたらと願ってやみません。



折角なのでスネちゃまについても少し補足しておきますが、彼が来るべき時に備えて知識を用意し、露骨にそれを公開しないというのはその通りで、彼の生きがいである「自慢」とも関わっていることでもあります。
スネ夫は自慢こそが生きがいであり、自慢のためには金も時間も労力も惜しみません。

鉄道模型の自慢を例に挙げると、彼はのび太鉄道模型に興味を示すまで、自分が鉄道模型に取り組んでいることを一言も言いませんでした。しかし、のび太鉄道模型に興味を持つとすぐに、のび太の初心者レベルの鉄道模型に対するカウンターとして、自分の鉄道模型を公開し、自慢に繋げたのです。スネ夫はこのチャンスをずっと窺っていたに違いありません。誰かが鉄道模型というトラップにかかるのを虎視眈々と狙っていたのです。スネ夫鉄道模型は金と時間と労力の結晶であり、あのレベルなら鉄道模型が話題に上がらない時に公開しても、十分な自慢になったでしょう。それでも彼は待ったのです。比較の対象になる存在が現れるのを待ち続けたのです。比べられる存在がいることで自慢はさらに引き立つということを知っているからです。そして、自慢できる瞬間を待ち続けながら、彼は日々人知れず自分の作品を磨き続けたのです。
話は変わりますが、彼が自慢する様々な種類のものを見ていると、ある一つの事実に気付きます。彼が自慢のネタとして頻繁に使うプラモやアニメや漫画は、彼自身が愛してやまないものでもあるのです。プラモを例に挙げてみましょう。彼はレベルの高い作品を完成させれば必ずそれを自慢します。しかし、「自慢できる」という最終的な結果のためだけに、高いプラモを購入し、時間をかけて高い技術を身につけ、完成のために心血を注ぐわけではありません。自慢できるできないとは関係なく、彼はプラモを愛しています。「自慢できる」という結果は彼にとって非常に重要なものですが、自慢に至るまでのプラモを作る過程もまた、彼にとって非常に楽しい時間であるのは間違いないのです。
スネ夫は自分の自慢のネタをある程度選別してると言えます。テストで100点をとることも、バンダムのプラモを完成させることもどちらも結果的には自慢に繋がります。むしろ、バンダムに興味を持つ人間にしか自慢できないバンダムのプラモよりも、100点をとることを選んだ方がより多くの人間に自慢できる結果につながると言えるでしょう。スネ夫自身も確かに自分が100点を取れば嬉しがっています。ですが、スネ夫のテストに対する態度は割といい加減とも言えます。少なくとも良い点をとるために、プラモに取り組む際と同程度の努力をするということはありません。これはスネ夫が勉強するという過程を楽しむことができないからです。過程も結果も楽しむと言うのがスネ夫流の自慢であり、彼の生き方そのものなのだと思います。だから、100点の自慢よりもプラモの自慢が選ばれるのです。
彼は自分というものをよく知っている。だから、自分が楽しく生きるためには何を選べばよいかを分かっているのです。過程も結果も最大限に楽しんでみせるという心構えがあるからこそ、彼は常に輝いている。自慢は生きがいだ。だが自慢のために自分を殺さない、自分が最も活き活きとするやり方で自慢に繋げてみせる。彼の生き方には学ぶべきところが多くあるのではないでしょうか。もう何が言いたいかってーと、スネちゃま一生ついてきます。